草津駅から徒歩5分。ネオンの揺れる長屋の路地に、リフォームされて名を掲げない扉がひとつあります。店内を確かめる窓もありません。必要がないのでしょう。選ぶのは、店ではなく、扉の前に立つ私たちです──「ビストロチャイナ蜜柑」。
こちらは、中華の骨格に高級和食材の知性を重ねる創作中華です。初訪問の今夜は、アラカルトで挑みます。
予約はホームページの専用フォームから。人気ゆえ、二週間先まで埋まることもしばしばです。同行者と予定をすり合わせ、その時を静かに待ちました。
当日、電車遅延。まさかの遅刻です。お詫びとして、相方に“好きな三品”の選択権を託しました。この決断が、夜の流れを変えます。
今宵は、つき出しを含む全7品の中から、心を射抜いた三皿をご紹介します。
1. つき出し5種

視覚の予測を軽やかに裏切る五重奏です。香りの立ち上がり、食感のスイッチング──一口ごとに風景が切り替わります。ふと視線を上げると、先客はワイングラスを傾け、奥にはワインセラーが静かに呼吸をしています。名のとおり“ビストロチャイナ”の幕が上がりました。
2. 近江牛シャトーブリアン 松茸 オイスターソース炒め

繊細で芳醇な近江牛に、松茸の香がふわりと重なります。極太もやしの力強い食感がリズムを刻み、一口で景色が明るくなるような幸福が訪れます。贅沢でありながら、どこまでも端正。満足の天井を静かに押し上げる一皿です。
3. 北海道白子入り 麻婆豆腐 土鍋仕立て

ジューシーな挽き肉、上品に痺れる辛味。その骨格に、白子が低音のコクと余韻を与えます。麻婆の輪郭を崩さず、旨味の層だけを一段深く。土鍋の熱は終盤まで勢いを保ち、最後の一匙まで“もっと”を誘います。これは、確実にリピートしたい名作です。
カウンターの向こうでは店主が一人、中華鍋を振り続けます。無駄のない所作、立ちのぼる香り、金属が奏でるリズム。時刻は関係を失い、ただ料理だけが進行します。
やがて、お店の外まで見送ってくださる店主に「次回はコースで伺います」──そう確信を胸にお伝えしました。
扉が閉まったあとも、熱と香り、そして約束だけが静かに残ります。